スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

石井岳龍の『箱男』と暗喩の無い不条理の問題

映画『箱男』オフィシャルサイト 2024年全国公開

インディペンデント。ロック。前衛。石井岳龍監督の映画『箱男』を観ると、日本で80年代以降から活躍を始めた映画監督の問題について考えてしまう。その問題とは、作品の中に社会や世界への暗喩を込められないことである。

安部公房の小説『箱男』が、その不条理さや実験の中で70年代前後の日本社会への暗喩を込めたのは明らかだろう。だけど石井監督による映画化では、不条理さとはロックにおけるノイズやディストーションのギターみたいな、ある種の手触りの良さ以上のものを持たない。不条理さがなにか新しい世界観を提示できず、広がりを持たないことに関して、あらためて80年代以降ということを考えさせるのだった。

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黒沢清作品『Chime』——ブロックチェーン技術の新興プラットフォームで生まれた純粋な作家性

 “1960年代に入ってテレビジョンが家庭に侵入してくるのと並行して、贅沢な撮影所システムは壊れていきました。小さなカメラと無名の俳優を使えば、どんどん街中で撮影できるわけです。それは安上がりだし、だいいちとてもリアルでした。日本だけではなく、アメリカでもフランスでも、このあたりから映画撮影の仕組みが変わっていきます。作り手側も、いやおうなく物語ではなく現実を作品に取り込むことを目指すようになりました。僕が映画にのめり込んでいったのはちょうどこの頃です。ですから、当時の若者にとって古い映画はリアルでないように感じられました。現実そのものであることこそ映画の目指す方向だと単純に考えていたんですね。でも、映画表現というのはどうもそんな単純なものではないということが、昔の映画をつぶさにチェックしてみることによってだんだんわかってきたわけです。なんとか今でもそれを目指したいと思ってるんですが、まあ到底叶わないですね”

(Roadstead 黒沢清インタビューより)

黒沢清作品でほとんどの余剰なく作られたものが意外な場所で、唐突に登場した。

いくら作家性の強い監督と言ってもなんでもできるわけではない。ビジネス上の要請によって多くの余剰にまみれてゆく。人気俳優の起用、わかりやすいプロットの提出、特定のジャンルに当てはめたもの、人気のある原作の映像化。ビジネスの枷は時に作家性を際立たせるものにもなるが、枷をすべて取り払ったときにどれだけ純粋な作家性が見られるものなのだろうか?

 

Chime』とはそうした枷を取り払ったような短編映画である。ここには有名な俳優を売りにすることも、明確なプロットもない。特定の原作もなくまったくの黒沢監督のオリジナル作品だ。本作は便宜的にホラーにカテゴライズできなくないのだが、それ以上に黒沢監督の映す恐怖がなぜ今日までモダンな力を持ち得てきたかを思い知らされる。

新興のブロックチェーン技術によるプラットフォームだから登場できた一作

純粋な作家性を映す短編を可能にしたのは、本作を公開する新興プラットフォームRoadsteadだからこそかもしれない。いわゆるブロックチェーン技術による新たなる映像販売を売りにしているプラットフォームであり、数量限定の映像を購入・レンタル・譲渡などを可能にしている。

背景を聞くとNFTビジネスのような胡散臭さを感じてしまうが、プラットフォームの運営会社はもともと映像業界向けにクラウドストレージサービスを展開していたところだ。ながらく映像業界と関わるうちに、業界の持つ問題を目の当たりにする。そうした問題解決の一環として、Roadsteadというプラットフォームを立ち上げたわけだ。

プラットフォーム立ち上げの初期こそ、先鋭的なコンセプトを押し出すプロジェクトが実行されるものだ。そこで黒沢監督による作品を売りにしている。コンセプトは作家個人をフォローする旨が語られている。

理由のない殺人と恐怖がもたらす今っぽさ

まさに『Chime』はそんな監督の作家性を推すプラットフォームだからできた、純粋な作家性の発露のように見える。

舞台は料理教室、主人公の講師を演じる吉岡睦雄は、まるでどこにでもいるような顔立ちで淡々と演じる。本作に登場する俳優はすべて同じように個人や個性がまったくない。日常のどこにでもいるような顔しかない。

そんな料理教室にてある日、受講生の一人が突然「頭の中からチャイムの音がするんです」と語り、包丁をのど元に突き立てて死ぬ。死を目の当たりにした講師は、その日から教室で、家庭で異様な出来事に遭遇するようになる。

本作は黒沢清のホラーが単なるJホラーブームみたいな流れで消費されず、30年近くに渡って現代的であるかを明らかにしている。

常に現代的と感じさせるのは唐突な暴力や殺人の描写だろう。殺人に至る背景がまったくわからない。しかしその唐突さの裏には、社会的な鬱屈や閉塞感が関係しているように見える。

鬱屈のなかで精神が追いやられ、いつ爆発するかがわからない感覚は作中で説明されてこない。それは観客を不安定にさせるだろう。だから幽霊が存在する前提があるホラーだとか、精神に介入するなんらかの能力が絡んだサイコスリラーだとか、既存のジャンルに当てはめることで不条理の理由にたやすい。

だが『Chime』にはそれがない。『回路』や『CURE』にあったジャンル分けゆえの、不条理を理解する(理解した気になれる)防波堤がない。ゆえに黒沢監督の恐怖がピュアに出ている。講師は本当に異常な出来事に遭遇したのが? それは現実だったのか? 40分弱の映画は答えをくれない。

もちろんどこまでが現実でどこまでは妄想なのかを考察することに意味はない。ただ現実社会で生きていくうえでの実態のしれない圧力やストレスにより、言葉にも出力できず、徐々に精神を崩していく人々の荒涼さを映しているだけである。その荒涼さはこれまでの黒沢監督作品でもお馴染みかもしれないが、ジャンルのない映画、顔のない俳優たちのおかげでより前に出ているのだ。

■『Chime』購入~レンタルは以下

 

 

『シン仮面ライダー』や『Black Sun』を超える緊張感の『劇光仮面』が提示する、日本のサブカルチャー暗黒の物語

 

劇光仮面
ちょっと今回は、近年、特撮を再解釈した映画がいくつも現れる流れのなか、今すぐ実写映画化を考案すべき漫画について取り上げる。特撮とは巨大怪獣から変身するヒーローまで、絵空事をまるで現実みたいに表現する実写ジャンルである。そんな特撮がより現実的な世界を描いたとき、異質な緊張感が生まれることだろう。アメコミにおけるアラン・ムーアの『ウォッチメン』みたいに。

近年で強い緊張感を人々にもたらした特撮作品は、やはり庵野秀明樋口真嗣による『シン・ゴジラ』(2016年)なのは間違いないだろう。初代『ゴジラ』(1954年)を東日本大震災福島原発事故をモチーフに再解釈することで、キャラクターIPとして安心して眺めていられたゴジラに生々しい緊張感を与えた。

そんな現実的な緊張感を持つ特撮の流れは昨年から加速しているらしい。2022年にはAmazonプライムオリジナルで『仮面ライダーBlack Sun』が公開。『孤狼の血』、『凶悪』の白石和彌が監督し、政府に絡んだ敵やヘイトに対抗する社会的なライダーに挑戦している。同年には庵野秀明樋口真嗣は『シン・ウルトラマン』を制作。今年2023年には庵野監督による『シン・仮面ライダー』が公開された。

いま現実的な世界での特撮ヒーローを描く作品が続いている。とりわけ先の『仮面ライダーBlack Sun』と『シン・仮面ライダー』に関しては、漫画原作者・批評家の大塚英志氏による「特撮とテロル」という現実のテロリズムの問題と絡めた論考も登場しているほどだ。

そんな流れのなか、僕がいまもっとも興味深く見ているのは、小学館ビックコミックスペリオールで連載中の漫画『劇光仮面』である。『覚悟のススメ』や『シグルイ』の山口貴由が描く本作は、特撮ヒーローと現実における関係を歴史的に振り返りつつ、現代におけるヒーローの定義や善悪の定義に関するスリリングな物語を展開している。その鋭さは『シン・仮面ライダー』や『仮面ライダーBlack Sun』が暗に抱えていたテーマをより明確に照らし出している。

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二宮和也が本物の少年犯罪者に見えたとき『青の炎』

昨年末は自宅でテレビの特番を見ていた。新型コロナウィルスが感染を広げていることが不安で、年を取った親のことも考えて帰省せずに過ごしていた。

番組では、いよいよ嵐が活動休止することを押し出したものがいくつもあった。画面を眺めながら、嵐のメンバーが40代にも近くなっているのに、ずっと最初に見たころみたいに若く……いやメンバーによっては幼いとすらいえるムードが変わらないことに危ういものを感じた。

自分はファンじゃないけれど、嵐はテレビやネットニュースで彼らの活動はいつも視界に入ってはいた。デビューから今回の活動休止までを、比較的リアルタイムで見てきたほうだ。

だけど彼らは年を取っていないように見える。SMAPやV6、TOKIOといったグループと比べて、嵐はほとんどイメージが変わらない。先述のグループが結婚から事件を起こすことまで、なんらかの人生の段階を踏む出来事を越えて年を取っていく姿を考えると、みんな賢しらな子供のままみたいだ。

特に二宮和也がそうだ。幼さと危うさがずっとそのままだ。結婚してもいるのに、10代の頃に初めて観た時のイメージは変わっていない。年を取ることにまるで無縁の子供みたいに見えながら、気難しく、瞬間的に怒りを見せかねない近寄りがたさがある。

同じころ、年齢を重ねることについて好対照なニュースがあった。松浦亜弥が第三子を授かったことだ。W-inds.橘慶太と結婚し、芸能界から退いてからはどうやら主婦として暮らしているという。アイドルをやめてから、ある種の若さから手を切れているように思えた。彼女が急速に年を取っていく姿は、逆にどれだけ全盛期が短かったかを感じさせるものだった。

二宮と松浦という対照的なふたりの今を見たあと、年明けにちょうどふたりが主演した『青の炎』がNetflixのラインナップにあるのを見つけた。

これは2003年に公開された映画だ。嵐がまだ事務所に期待されたヒットが生み出せず、苦しんでいた頃で、松浦亜弥が全盛期を迎えていた頃だった。10数年ぶりに見なおすと、ふたりの危うい部分がそのまま映っているのがよく見えた気がした。

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終わってしまった、たけし映画のクリエイティブとビジネス『天才をプロデュース?』書評

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いまさらながら、映画とは国内でどう思われているのだろう? 自己実現の手段か、あるいはビジネスか。漠然と前者が信じられ、後者があいまいにされているのが本当のところだ。

特に映画のように大きなコストがかかるジャンルでは、実は作家的なものにこそ、作り続けていくのにプロデュースの必要があるのだと思う。

自分が最近クリエイティブとビジネスについて考えていたなか、ちょうどしっくりときたのが『天才をプロデュース?』だった。これは元オフィス北野の社長である森昌之氏が、北野武映画をプロデュースしてきたことをまとめた本だ。

北野武の映画作品は、おおむねファインアートなのだと思われていることだろう。ビートたけしとしてのTVタレント活動をコマーシャルなものであるとすれば、映画は自己表現を研ぎすませたものとして作られている、そう評価されやすい。

しかし実際には森昌之氏のプロデュースも大きい。本書では、かつて一介のTVディレクターだった彼が、北野武の映画が評価されていくとともに、自身も世界に通じる映画プロデューサーへと変貌していく過程がまとめられている。

そこには映画がファインアートとコマーシャルの双方を兼ねて制作されることについて、まっとうな姿勢があった。オフィス北野のトラブルにより、森が北野武と離れることになったいま読むと、むしろ映画に対する誠実さにあふれている。そして北野武との関係についていくつか感慨深くなる部分がある。

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通り魔と家族のこと『葛城事件』

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『葛城事件』

「三船は1966年(昭和41年)、世田谷区成城に2000坪の土地を買い、3つのスタジオとオープンセットからなる撮影所を作る。 これは個人プロダクションではありえないことで、他のスタープロダクションはせいぜいマネージャーと事務員で構成されているだけの会社。全然規模が違う次元に差しかかっていた。」

「昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員数名を引き連れて『田中プロモーション』を設立した。(『世界のミフネ』三船敏郎を語るより)」

「この分裂劇は法廷へともつれ込んだが、田中からの謝罪を三船が受け入れることで、和解した。分裂で大打撃を受けた三船は軌道修正を図るべく、1981年には三船芸術学院を設け、役者や制作スタッフの育成に力を注ぐも、内紛騒動で出来た穴を埋めることはできず、1984年には撮影所が閉鎖に追い込まれ敷地の多くを売却するなどの事業縮小を余儀なくされた。(wikipediaより)」

現代の通り魔殺傷事件とは、同時に壊れた家族を見ることでもある。2008年に起こった土浦の事件や、秋葉原の通り魔事件の犯人が逮捕されたあと、背景が報道されるなかで、いくつかのメディアは家族関係について言及していた。

いずれも家族のなかで人間性を無視され、人生を続けるためのベースを作れないまま、ここまで来てしまったことを伝える。もちろん事件が起きた理由のすべてを家族と言うのは違う。しかしどのように犯人たちが成り立ったかを身近に想像させるだろう。

この傾向に気づいている作家もおり、通り魔事件を家族のことなのだと紐解く映画も出てきた。それが『葛城事件』である。

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『山田孝之の東京都北区赤羽』の頃

 

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山田孝之東京都北区赤羽

Netflixオリジナルドラマ『全裸監督』で80年代のAV監督・村西とおるを演じきり、山田孝之はさらに評価を上げている。近年は俳優のみならず、プロデュース業など活動の幅を広げていることで知られている。

順調にキャリアを広げているように見えるけれど、少し前、そうではなかった。いまから5年ほど前、なにか俳優に限界を覚え、今後に悩んでいた姿があった。『山田孝之東京都北区赤羽』にはキャリアの壁にぶつかった姿が、不思議なかたちで映し出されている。俳優の過渡期を写し取った作品でもあり、同時に俳優という仕事の資質についても考えさせられるドキュメンタリーである。

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