スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

『シン仮面ライダー』や『Black Sun』を超える緊張感の『劇光仮面』が提示する、日本のサブカルチャー暗黒の物語

 

劇光仮面
ちょっと今回は、近年、特撮を再解釈した映画がいくつも現れる流れのなか、今すぐ実写映画化を考案すべき漫画について取り上げる。特撮とは巨大怪獣から変身するヒーローまで、絵空事をまるで現実みたいに表現する実写ジャンルである。そんな特撮がより現実的な世界を描いたとき、異質な緊張感が生まれることだろう。アメコミにおけるアラン・ムーアの『ウォッチメン』みたいに。

近年で強い緊張感を人々にもたらした特撮作品は、やはり庵野秀明樋口真嗣による『シン・ゴジラ』(2016年)なのは間違いないだろう。初代『ゴジラ』(1954年)を東日本大震災福島原発事故をモチーフに再解釈することで、キャラクターIPとして安心して眺めていられたゴジラに生々しい緊張感を与えた。

そんな現実的な緊張感を持つ特撮の流れは昨年から加速しているらしい。2022年にはAmazonプライムオリジナルで『仮面ライダーBlack Sun』が公開。『孤狼の血』、『凶悪』の白石和彌が監督し、政府に絡んだ敵やヘイトに対抗する社会的なライダーに挑戦している。同年には庵野秀明樋口真嗣は『シン・ウルトラマン』を制作。今年2023年には庵野監督による『シン・仮面ライダー』が公開された。

いま現実的な世界での特撮ヒーローを描く作品が続いている。とりわけ先の『仮面ライダーBlack Sun』と『シン・仮面ライダー』に関しては、漫画原作者・批評家の大塚英志氏による「特撮とテロル」という現実のテロリズムの問題と絡めた論考も登場しているほどだ。

そんな流れのなか、僕がいまもっとも興味深く見ているのは、小学館ビックコミックスペリオールで連載中の漫画『劇光仮面』である。『覚悟のススメ』や『シグルイ』の山口貴由が描く本作は、特撮ヒーローと現実における関係を歴史的に振り返りつつ、現代におけるヒーローの定義や善悪の定義に関するスリリングな物語を展開している。その鋭さは『シン・仮面ライダー』や『仮面ライダーBlack Sun』が暗に抱えていたテーマをより明確に照らし出している。

 

特撮サークル “特美研”主催の葬儀

「僕は何者でもない。僕は空洞だ。鏡に映る自分の姿は、これが自分だと確信が持てるだけの生気に満ちていない」主人公・実相寺二矢の不気味なモノローグから『劇光仮面』の物語が始まる。29歳の彼はアルバイトとして暮らしながら、ある目的のために身体を鍛え続けている。

実相寺は葬儀へ向かう準備をしていた。大学時代のサークル・特撮美術研究会(以下、特美研)の主催だった切通昌則が亡くなったのだ。切通の通夜、実相寺は久しぶりに特美研のメンバーと集まる。かつて同じ活動をしていたメンバーは大学を卒業してから大手おもちゃメーカーに就職したり、警察に所属したり、あるいは原発廃炉プロジェクトに所属したり、さまざまな進路に分かれていた。すでに特美研は過去になっていた。

ただ彼らは参列の一方で別の目的があった。切通の遺言だ。自分の着ていた “劇光服”を実相寺たちの手で裁断してほしいという願いが書かれていた。劇光服とは、原作のある特撮美術のスーツを現実でも実用できるものとして制作したスーツである。服は刃物も通さない固い素材で出来ており、普通の肉体では着られないくらい重い。

実相寺は自宅に仲間を集め、切通の劇光服 “ゼノパドン”を切断する儀式を始める。実相寺は自らの劇光服 “ミカドヴェヒター”に着替え、刀を構える。そう、実相寺はこの儀式のために身体を鍛え続けていたのだ。彼のなかで特美研はまだ続いている。メンバーたちは実相寺の異様さに驚きながらも、特美研での日々を思い出してゆく。

現実世界の反映としての特撮ヒーロー

『劇光仮面』は設定だけ見れば特撮趣味の大学生の集まりと、彼らが卒業してからのその後みたいな青春ボンクラドラマにしか見えない。だが本作品には青春の気配は皆無だ。『トクサツガガガ』や『げんしけん』みたいに趣味に熱中する人々へ共感する手触りはどこにもない。

あるのは「特撮とは現実の人々の畏れや祈りが形になったもの。ゆえに特撮ヒーローは実在できる」という実相寺たちの信仰に近い考えである。この考えは他の特撮映像作品はもちろん、特撮テーマの漫画やアニメとも一線を画す。

“特撮の物事を現実ベースで描いてみる”そんな先行作品はいくつかある。2013年のアニメ『サムライフラメンコ』や2018年から連載中の漫画『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』などが見受けられた。だがそれらは確かにリアリスティックな面もあるが、あくまで特撮パロディの範疇を越えていないと思う。

『劇光仮面』が異質なのは「特撮ヒーローは現実に実在できる」思いの切実さだ。なにせ特撮を「現実の人々の畏れや祈り」と解釈した根拠を積み上げるために、日本の特撮の戦中〜戦後の歴史にまで遡ってゆく。

実相寺たちは抜け殻となった切通の劇光服を見ながら、切通との大学時代の活動を思い出してゆく。そこで描かれるのは、日本の特撮とは現実を無視したフィクションではなく、現実を徹底して反映して誕生しているという歴史的な事実を追いかけた日々だ。

実相寺は特美研で活動するなか、日本の特撮が戦後から現在までに発展するまでの歴史に触れてゆく。たとえば『ウルトラマン』を生み出した円谷英二(作中では一ノ谷萬二)の歴史だ。円谷は第2次大戦中、戦意高揚映画の特撮に関わっていた。真珠湾攻撃のための陸海軍兵器の運用法をレクチャーする映画を、綿密な兵器のミニチュアによって制作していた。

やがて円谷は『ゴジラ』(作中ではヴルート)の特技監督として、大戦中に受けた東京大空襲や原爆投下の現実を反映した怪獣特撮を生み出す。

このエピソードを始め、東映特撮における初代仮面ライダー(作中では仮面ヴァイパー)が生身の俳優によるハードな特撮を行っていた歴史などが要所で挿入される。こうした歴史のエピソードが「特撮は現実の社会の反映。ゆえに虚構ではなく現実のものでもある」と示唆してゆく。

特撮の歴史に触れた実相寺たちは、特撮が絵空事ではない現実という確信を強める。その確信は特美研を過激な活動へ導く。メンバーが劇光服を着こみ、そのキャラクターを演じる形で現実世界に干渉する活動だ。干渉は社会活動から犯罪に立ち向かうなど様々なバリエーションを持つ。特美研はその活動を “劇光仮面 ”と呼んだ。

奇妙な善悪の境界

不気味なのは特美研による劇光仮面の活動が、実のところ善に直結していない点である。

わかりやすい善悪の構図がないわけではない。本作では現実社会が舞台ということもあり、立ち向かうべき悪としてリアルな事件が描かれる。2017年の座間市の殺人事件を思わせる家族の消失事件が冒頭から示唆されるし、2015年に発生した川崎の中学生が殺害された事件をモデルにした生々しい事件も出てくる。

美研は劇光仮面の活動によって現実の事件に立ち向かうという善悪の構図もある。にもかかわらず、どうも犯罪を未然に防ぎ、善を為すことが彼らの本当の目的ではないようなのだ。

特撮作品をより現実的なリアリティラインに置いた作品で問われるのは、単純ではない善悪の境界の設定である。現実に寄った世界観を提示する場合、その境界はおおよそグラデーションになる。たとえば『シン・仮面ライダー』や『仮面ライダーBlack Sun』を見れば、善悪の曖昧なグラデーションが作品の緊張感に繋がっているのは分かるだろう。

ところが『劇光仮面』の場合、善悪の境界がまだらなことが読者を不安に陥れる。特美研のメンバーの真の目的は実際のところ犯罪の抑止ではなく愛した特撮ヒーローになりきることだ。コスプレと大差ないように思えるが、なりきろうとするレベルが壊れている。

実相寺たちは演じる特撮ヒーローの設定や性格などを理解するだけでなく、制作したクリエイターの歴史的な背景も解釈した上でそのヒーローの劇光服を着る。そして現実にそのヒーローならではの行動まで実現することで、 “劇(はげ)しい光”に包まれる体験を求めてゆく。自身が特撮ヒーローと同化してしまうような体験を得ようとしているのだ。

最初は劇光服でアメフト部との力比べに勝ったことで、ヒーローとの同化体験を得られた。だが、やがてメンバーは同化体験を求めて現実の犯罪に挑むように過激化してゆく。そう、特美研は正義の遂行を目的に特撮ヒーローとして犯罪と戦うのではなく、演じる特撮ヒーローとの強い同化体験を得るきっかけとして犯罪に立ち向かっているのだ。

おそらく同化することによって、特撮ヒーローが架空の存在ではなく真に現実に存在できると感じる瞬間に実相寺たちは恍惚を覚えている。しかしそれは善と言えるのか? 犯罪と戦うにしても愛する特撮ヒーローと同化したい、実在させたいというのはエゴであり、エゴとは往々にして禍々しいものではないのか?善とは社会や他人に対する無私ではないか?

本作は読書のあいだこうした疑問が堂々巡りになるほど、善悪の境界が歪である。

善と存在意義

『劇光仮面』を読み進めていくと、なにより主人公が善と設定しているのは「特撮ヒーローが持ちうる物語性に同化し、現実化すること」そのものであり、悪なのは現実社会に存在意義を見い出せない本人そのものの問題であることが見えてくる。「僕は何者でもない。僕は空洞だ」その空疎さを払拭するために特撮ヒーローの物語に同化する。

(現在まで出版されている3巻までの内容では)作中の善悪が実のところ個人の問題に収斂されている点が異質である。『シン・仮面ライダー』でも『仮面ライダーBlack Sun』でも善悪の境界はまだはっきりしていたし、敵味方もはっきりしていた。だが『劇光仮面』には厳密な意味での敵がいない。

さらに『劇光仮面』で善悪が個人的な問題になるのも、社会や歴史と関係した重層的な背景がある点が描かれているのが恐ろしい。ここでまた特撮の歴史を遡る話に戻そう。実相寺たちが大学時代、仮面ヴァイパーの怪人をデザインした高齢の美術造形家・狭山章に出会うエピソードがある。

狭山も怪人デザインの背景にはやはり第二次大戦の経験が反映されたことを語る。だがその記憶は痛ましいものだった。大戦の末期、狭山は特攻要員だった。しかし国から支給されたのは特攻兵器「伏龍」だった。

伏龍とは潜水スーツを着て、先っぽに機雷が付いた棒で海底から敵の船を狙うための兵器である。特攻要員の生還は想定されておらず、大日本帝国の非人間性が露わになった最悪の兵器だった。膨大な欠陥がある兵器であり、演習の段階で仲間たちは事故死していく。

狭山のこの経験が特撮美術に影響したと語り、特美研のメンバーも息を飲んで聞き入る。ところが実相寺だけは伏龍による特攻を美しいと感情移入してしまう。

ここで狭山のエピソードで興味深いのは、戦後に現れた仮面のヒーローの活動である。戦後、GHQによる占領が始まった時期、進駐軍による市民への暴力があった。その暴行を諫める仮面のヒーローとして「劇光仮面」が登場する。

その正体は狭山と同じ特攻要員だった。戦後、次々と価値が書き換えられ、「心がからっぽになった」と自分の存在意義を失った空白を埋めるかのように進駐軍への攻撃を行っていたことが語られる。実相寺は伏龍によって国のために死ぬこともできず、戦後に存在意義をなくしたまま劇光仮面となった特攻要員に強く感情移入してゆく。

このエピソードは特美研の活動名の元になっただけではなく、本作が提示している物語のテーマや日本の特撮ヒーローへの解釈に直結している。つまり本作における善の目的は社会や人々を守ることに実は繋がっていない。それどころか善の前提として社会や国が守るべき形を失っている。主人公は社会に存在意義を見出せない空虚な存在である。だが虚構の特撮ヒーローを現実のものとする瞬間にだけ存在意義を見出している。

『劇光仮面』がなにより怖いのは、特撮ヒーローの存在を今の日本で現実的に描いた場合、実はヒーローの戦いが善に直結できないのではないかということである。

ふつうの特撮作品ならば、善悪がわかりやすく分かれ、ヒーローの戦いはそのまま社会を守ることに繋がり善を為すことになる。だが『劇光仮面』では、戦いはすべて特撮ヒーローを演じる人間が自身の空虚さを払拭しようとする行為に留まっているのだ。犯罪の抑止が社会を守るためではない。守るべき善としての社会が存在しない戦いなのだ。

暗黒のサブカルチャーの物語

さらに話を敷衍すれば、本作で描かれる特撮ヒーローの存在は戦後のサブカルチャーの発展と現在そのもののようでもある。

特撮だけでもなく、アニメでも漫画でも代表的な作品を個々に検証すれば、すぐに現実の反映としての虚構という解釈はできるだろう。問題は「だからこそ現実的なんだ」と入れ込む受け手側である。社会や国の状況を現実として よくできた虚構を現実的に解釈し、入れ込んでいく胡乱さ。庵野秀明の発言だったか「僕たちには何もない。コピーしかない」という言葉も本書を読みながら思い出していた。

『劇光仮面』でもっとも現代的であるのは、サブカルチャーの誕生と受容にまつわる部分といってもいい。現実の空虚さを膨大なコンテンツで埋めること、コンテンツがなにより現実を先んじていること、帰属すべき現実としての社会がまるで認識しづらいこと……数々の厳しい示唆を本作から見出すことができるだろう。

 

もちろん、ここまでのテキストは『劇光仮面』の連載途中までの評にすぎない。今後はわからない。『劇光仮面』は現在3巻まで出版されている。3巻までの連載で一旦物語に区切りが付き、次の展開に入っている。

今後、実相寺と対照的な敵は現れるのか? 本人の空虚さという問題は果たして特撮ヒーローに入れ込むことで払拭しきれるのか? いずれにせよ、山口氏と編集部がどの選択を取ろうとも、現代の日本の特撮作品に対する緊張感を与える展開になることは間違いない。