スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

『山田孝之の東京都北区赤羽』の頃

 

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山田孝之東京都北区赤羽

Netflixオリジナルドラマ『全裸監督』で80年代のAV監督・村西とおるを演じきり、山田孝之はさらに評価を上げている。近年は俳優のみならず、プロデュース業など活動の幅を広げていることで知られている。

順調にキャリアを広げているように見えるけれど、少し前、そうではなかった。いまから5年ほど前、なにか俳優に限界を覚え、今後に悩んでいた姿があった。『山田孝之東京都北区赤羽』にはキャリアの壁にぶつかった姿が、不思議なかたちで映し出されている。俳優の過渡期を写し取った作品でもあり、同時に俳優という仕事の資質についても考えさせられるドキュメンタリーである。

俳優にとっての演技の上手さ

俳優にとって演技の上手さとはなんだろうか? 表情、間の取りかた、声、オーラ……いくらでも要素を挙げられるが、もっともなのは、非現実であるフィクションでの役柄を、現実的だと観客に信じさせることができるかだろう。

映画やドラマで演じる役を、観客が自然と本物のように感じさせられることができれば優れた役者だと思う。これは役者じゃないアイドルやタレントの映画やドラマへの出演と比較すれば、違いはわかりやすいかもしれない。ドラマで演じる役を、バラエティに出ている本人以外に感じさせければ、その役者はフィクションの世界を信じさせることをできておらず、下手な役者だと感じる。(もちろん監督や演出によって、役者に技能が足りなくても、観客にフィクションの世界を信じさせるケースもあるので、この限りではないが。)

しかし『山田孝之東京都北区赤羽』では、そんな非現実を現実的だと思わせる役者の存在がひっくり返る。優れた役者ほど、日常で現実がないのではないか、と思わせるのである。

冒頭、存在しない時代劇の侍を山田孝之が演じている。山田の技量は高く、こんな嘘の時代劇だろうが、彼が演じる侍の存在を信じられるほどだ。

シナリオでは最後、刀で自決するシーンを演じる予定だった。しかし山田の演技は止まり、「模造刀ではなく真剣でなければやらない」と拒否してしまう。現場が混乱する中、後日、山田に話をうかがうと「自分には、なにか芯のようなものがないのではないか」と悩みを打ち明ける。そんな中、彼が問題を打ち破るヒントに挙げたのは、なぜか清野とおるの漫画『東京都北区赤羽』だった……

優れた俳優の、日常での空疎さ

こうして「自らに軸のようなものを作るため」山田孝之が赤羽に一人暮らしを始める。そんな彼の生活する連続ドラマを、インディペンデント系作家である山下敦弘松江哲明ふたりが監督してゆく。

このドラマは「いったいどこまでが本当で、どこからが作りなのか」という、ありきたりな見方がされていた。「このドラマを監修している」という体で、カメラの前に出てくるのも山下敦弘のみで、松江の姿は現れないことなども曖昧さもあり、現実と虚構の境目だとか、そんな境目で山田孝之が(たとえば「勇者ヨシヒコ」シリーズみたいに)ふざけているのがおかしいみたいな評価が少なくなかったと思う。

みんな現実と虚構みたいなのが大好きだけど、実際は深みも何もない安易なテーマだ。では『山田孝之東京都北区赤羽』の何がいいかというと、優れた役者ほど日常では非現実的で、空疎である姿を晒し、しかも本人がそこに悩むことがそのまま映っていることである。

「フィクションの世界を信じさせる」役者としての技能が高ければ高いほど、現実ではどこか空疎で、とらえどころがない人間であることも少なくない。

純粋な役者とは言い難いが、優れた演技をする芸人に板尾創路がいる。彼もバラエティに出ているときの空疎な雰囲気と、浮世離れした印象を持つひとりである。(バラエティをこう捉えるのもおかしいが)現実に近い範囲のメディアでは、よくわからない雰囲気を持っているが、ひとたび役に入れば、フィクションの世界を信じさせる演技ができるひとりだ。

山田孝之は『北区赤羽』の作中で、映画監督の大根仁に「やっぱり世間知らずな所があるから変な占い師にひっかかったりするんだよ」などと言われるくらい、日常では浮世離れしていることを指摘される。

その対照に、赤羽に住むジョージさんやタイ料理店を営むワニダさん、シンガーソングライターの斉藤竜明さんみたいな人々が登場する。山田は彼らを「何か芯があるように見えて……」と語る。彼らと関わることで、なにか新しい展開を探していくことが主な内容で、それが切実なのか、ふざけているのかが曖昧である。本人が空疎で、俯瞰して自分を観ているから。

後の活動を予見するみたいな展開 

山田は北区の人々と出会いながら、今の多彩な活動を予見するみたいな展開をしている。たとえば今、綾野剛らとソフトバレエを思わせるバンド「THE XXXXXX」を始めている。これは『北区赤羽』で斉藤竜明さんやイエローモンキーの吉井和哉さんとエンディングテーマを作るエピソードに現れている。

今年1月に公開された映画『デイアンドナイト』のように、原案やプロデュースを行っている。この活動も予見するエピソードもあり。赤羽の住人が描いたまんが「ザ・サイコロマン」を原案にビデオで映画を作り始めたり、最終回に赤羽で出会った人たちで演劇をやり始めたりする。

演目が「桃太郎」と本当にふざけているんだけど、これが第一話で演じた「刀で自害することができない」苦しみを払拭するという内容ですごく感動してしまう。俳優業に行き詰っていたことを、音楽や映画プロデュースによって打開していく内容で、現在の山田孝之を凝縮してドラマにしているとも言えるのだ。

いま『北区赤羽』を見直すと、山田の空疎さと対照で、赤羽の路上がやけに魅力的に映るし、やっぱり本当に当時は悩んでいたんだな……と、わかりにくいながらも切実な状況だったことが伝わる。悩みながら、優れた役者と土着的な場所のふたつが、奇跡みたいに映されている。稀有な役者がキャリアに苦しむ、自己言及的な姿をそのまま映していることが希少だし、不思議な共感を受けるのである。

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第1話

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