スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

石井岳龍の『箱男』と暗喩の無い不条理の問題

映画『箱男』オフィシャルサイト 2024年全国公開

インディペンデント。ロック。前衛。石井岳龍監督の映画『箱男』を観ると、日本で80年代以降から活躍を始めた映画監督の問題について考えてしまう。その問題とは、作品の中に社会や世界への暗喩を込められないことである。

安部公房の小説『箱男』が、その不条理さや実験の中で70年代前後の日本社会への暗喩を込めたのは明らかだろう。だけど石井監督による映画化では、不条理さとはロックにおけるノイズやディストーションのギターみたいな、ある種の手触りの良さ以上のものを持たない。不条理さがなにか新しい世界観を提示できず、広がりを持たないことに関して、あらためて80年代以降ということを考えさせるのだった。

 

 

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黒沢清監督が、亡くなった森田芳光監督の『家族ゲーム』を評したときにこう言ったことを思い出す。

まるで記号のような人物で、現実に生きている人間とは思えない。でも、それを生の俳優が演じると舞台劇のような存在感が立ち込めて、絶対ウラになにか意味があるはずと思わせるんだけど、たぶん無意味なんです。

家族ゲーム』は80年代の日本映画を象徴する一作と言っていいだろう。それだけに黒沢監督の指摘は重い。これは言い換えれば演出のなかに暗喩だとかを込められないことを表しているように思う。

80年代とはいよいよ日本映画のスタジオシステムが陰りを見せた時代で、すなわち日本において映画というジャンルが文化的にも商業的にも一線級の立場ではなくなってきたことを意味する。

そしてそれは、映画という表現媒体がある種の現実を表現する(あるいは現実を作り出す)ジャンルとして後退することも意味している。

ある種の現実が表現できているかどうかは、その映画の世界のなかにどれだけ現実の暗喩が込められているかから判断できる。80年代に鮮烈な映画表現を武器に登場した監督ほど、過剰な映像と裏腹に作品世界に暗喩を籠められていない空疎さはある。

たとえば『鉄男』で一躍世界的に名を知らしめた塚本晋也に間違いなくテーマはあるだろうが、実際の映画は表現のための表現という部分はキャリアの初期から中期くらいにつきまとっていたように思う。やがて、その傾向は2000年代ごろから変わっていくのだが。

狂い咲きサンダーロード』で登場した石井監督もなにかそういう面がある。別に現実世界や社会を無視した作り手ではないのだが、今回『箱男』を観て、あらためてそんな80年代について考え直させるのだった。

映画『箱男』は基本的にはクオリティがある。品質のいいカメラでの撮影や鮮やかな舞台美術などは画面をかたく作りこんでいるし、映画の最初の方は単純なグルーヴがあって見てられる。

勝本道哲によるロックテイストの音楽で、箱男が激闘を繰り広げる序盤は『狂い咲きサンダーロード』『爆裂都市』を思わせる手触りであり、石井監督はこの年齢でまだそれができるのはすごいと思った。塚本監督はもう『鉄男』には二度と戻らなくなっているのに。

そんな80年代の全盛期にみせたやり方を、いまもクオリティの高い画で見せられるだけに、ダンボールを被り、箱の隙間から現実を見つめる暗喩のなさが明らかになる。そして不条理のイメージに暗喩がないということは、箱の隙間から覗き見ているはずの世界そのものが実は存在しないのと同義なのである。

暗喩がないままの不条理が次から次へと展開されるとどうなるのだろうか? 数人の箱男同士の関係、その関係に入り込む女性とのフェティッシュなシーンの数々、そのすべてが無意味さに変わるのだ。映像の鮮烈さと裏腹に、深層心理に響かない映画を観ている感覚がある。

このあたりに石井監督がなにか主題を掴みかねているのを見てしまうというか、不条理や前衛の手法を単なる80年代パンクロックバンドのライブパフォーマンスの衝動みたいに扱う感じがあって、意味を為さない印象が強い。

1970年代の安部公房はおそらく、急速に変貌していく社会の現実感をある意味で表現するために不条理や実験を持ち出してきたのだと思う。そして原作小説の手法は時代が変わった現代でも有効だと思われ、映画で暗喩を込めることは不可能ではなかったように考えている。それだけに、映画『箱男』の暗喩の無い不条理に見られる、現実世界の実質的な喪失感は根深い。誰も箱の隙間から世界を観れておらず、暗い箱の中で過剰な、刺激的な妄想をノートに書き記し続け、その先の世界はないことを意味するのだから。

80年代以降に文学や美術、映画といったメインに近い表現媒体が力を失い、代わりにテレビから漫画、アニメーションやビデオゲームといったコマーシャルとしての表現媒体が飛躍的に拡大した。そこでの作品の多くに、クオリティはあってもその表現に何の暗喩もない空疎さを抱えている。

そんなことは嫌というほどサブカルチャーに言われてきたことだが、こうした問題に “作家的”な映画作家は気づいているものだろう。ある種、複雑化していき、移り変わっていく現実感を映そうとするものだろう。しかし映画でそれが叶わないことに、主題や社会を喪失している根深さのほうに考えさせるものがあるのだった。