スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

通り魔と家族のこと『葛城事件』

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『葛城事件』

「三船は1966年(昭和41年)、世田谷区成城に2000坪の土地を買い、3つのスタジオとオープンセットからなる撮影所を作る。 これは個人プロダクションではありえないことで、他のスタープロダクションはせいぜいマネージャーと事務員で構成されているだけの会社。全然規模が違う次元に差しかかっていた。」

「昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員数名を引き連れて『田中プロモーション』を設立した。(『世界のミフネ』三船敏郎を語るより)」

「この分裂劇は法廷へともつれ込んだが、田中からの謝罪を三船が受け入れることで、和解した。分裂で大打撃を受けた三船は軌道修正を図るべく、1981年には三船芸術学院を設け、役者や制作スタッフの育成に力を注ぐも、内紛騒動で出来た穴を埋めることはできず、1984年には撮影所が閉鎖に追い込まれ敷地の多くを売却するなどの事業縮小を余儀なくされた。(wikipediaより)」

現代の通り魔殺傷事件とは、同時に壊れた家族を見ることでもある。2008年に起こった土浦の事件や、秋葉原の通り魔事件の犯人が逮捕されたあと、背景が報道されるなかで、いくつかのメディアは家族関係について言及していた。

いずれも家族のなかで人間性を無視され、人生を続けるためのベースを作れないまま、ここまで来てしまったことを伝える。もちろん事件が起きた理由のすべてを家族と言うのは違う。しかしどのように犯人たちが成り立ったかを身近に想像させるだろう。

この傾向に気づいている作家もおり、通り魔事件を家族のことなのだと紐解く映画も出てきた。それが『葛城事件』である。

 


 …

土浦通り魔事件の犯人の父親は外務官僚だったそうだ。社会性から見れば、誰もがこの家族は間違いようがないと思いこむ。しかし実際の生活を社会性は保証してくれない。

家族とはプライベートな領域なのに、たやすく社会性から間違える。それは家族の当事者であっても。通り魔事件から家族を見つめるとき、多くの破綻について目を向けることになる。

父親は犯人に過大な期待を寄せたが、多忙のために家におれず、母親が犯人や兄弟たちを育てていたという。犯人が行動に至る時期には、家族の会話はすべて筆談だったそうだ。当初、犯人は妹への殺意をしたためていた。父親が法廷で事件について証言したとき、まるで自分のことじゃないみたいに話したそうだ。 

秋葉原通り魔事件では、加藤の母親はまるで本人の人格を認めない教育を行っていたことが知られている。人生を続けていくのに、なにより大事なことは自己を認めていくことに違いない。他人との関係と、自分の行動の繰り返しによって。

しかし家族に恵まれず、友人たちにも出会うことがなければ、認めるのは難しくなる。彼らが自殺をするつもりで周りの人間を殺し、逮捕された裏側には、自己が認められることもなく、ただ社会性のなかで、すべてを押し殺されたことへの復讐めいたものがある。

子供たちの自己を認めず、押し込め続けてしまうとはどういうことか。

『葛城事件』で三浦友和は典型的な父親像を演じることで、何の役にも立たない姿を映して見せる。父親像は家族の人格を否定したり、無視してしまったりすることにしかならず、やがて通り魔殺人を起こす息子を生み出す物語である。

社会性の誤謬が家庭に現れる最たるものとして、父親か母親のふるまいがあるだろう。本質的に自己を認めていくことなのだが、そんな答えを当事者はわからない。自分が経験したり、社会性だったりの中から正解を導き出そうとする。しかし時代や環境が変わり、上手く行かないこともあるのだった。

『葛城事件』では昭和みたいな強い父親像が、子供たちを追い詰めていくグロテスクな物語である。父親にはおそらく家族のなかで自分の役割をこうだとなことがなにもできない。

ひどい状況を描いた映画だが、まだ救われるのは、三浦友和新井浩文たちの存在や演技が出来上がっているから、フィクションとして完成度が高いことだ。演じる彼らには、疑いようのない自己があって、辛い内容でも観ていられる。

現実の犯人たちと家族たちは辛い。他の人と関わる自己像を作る考えそのものを、おそらく知ることすらかったひとたちだからだ。起こした犯罪の大きさに比べて。拍子抜けするくらいオーラがない。平成のある時期から「普通の顔をした人間が犯罪をするようになった」と評されていた。それは事件が生まれる背景に、自己を失うこととか関係があるのではないかと思っている。

秋葉原や土浦の事件、あるいは今年起きた川崎の事件や、通り魔事件ではないものの、事務次官が息子を殺害した事件、それぞれの犯人や、家族たちの顔を見ながらそう思う。自己を失った顔。社会性で押しつぶされた顔。映画作家たちはまだ、その空疎さを映し出すことに苦心していると思う。あらゆる物語の成立も阻む空疎さが、現実に横たわっている。

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葛城事件

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