スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

『凶気の桜』ベースを持たなかった時代の窪塚洋介

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凶気の桜』(2002)

丸山 僕は映画の現場を知りませんが、監督はそれこそ“孤高”で、すべて監督が決めるというイメージがありますが。
成島 もちろんそういうタイプの監督さんもいます。でもそれは、撮影所がしっかりしていた時代はできた。昔、大先輩に教わったんだけど、昔の撮影所のイメージはピラミッド型。監督が上で、役者、その下にスタッフがたくさんいたので、監督が変わろうと撮影所が機能して、映画は成立したんです。今は逆で、監督は下に居る。つまり“逆三角形”です。「監督や主役がぐらついたら、全スタッフがぐらついてしまう。これを覚えとけ」って言われた。但し安定するためには、スタッフがしっかりして上から押さえてくれることは大事なんですが。やはりどちらにあっても変わらないのは“人”。今や撮影所システムが崩れてしまった 。(成島 出監督 ~映画への熱き想い~より)

 

今回はインディーの路上映画とは違うけれど、現代のヒップホップとの絡みが少なくない日本映画の先達ということで『凶気の桜』。 

高校の時に初めて観て、日本語のヒップホップをはじめて認識したのはこの映画からだったか。歌詞(リリックという言葉すら知らなかった)の強さ、メロディやコード進行による感情移入と物語性に牙を剥くむき出しのビートを背景に真夜中の渋谷で白装束の3人がチーマーを殴りつける。

そこには渋谷という街の現実を映しながら、同時に不気味な非現実性が宿っている。ヤクザ・右翼・チーマーの中で己を示すグループ、ネオ・トージョーの物語という、現実世界と別に構築された映画ならではの作品世界の非現実さではない。

それは当時23歳、ひとつのピークを迎えた窪塚洋介の持つ非現実さである。窪塚洋介の非現実さはルーツやベースというものが見当たらないところから生まれている。

 

2002年の窪塚洋介

『GO』、『ピンポン』そして本作と2001年~2002年にかけての窪塚洋介の活躍は、今振り返ると凄いというより落ち着かない気持ちにさせられる。どの主人公も小学生みたいなテンションでふざけてるのか? と感じる一方で生き急ぐかのような切迫感を持っている。なにか窪塚洋介本人が本質的にベースやルーツが欠落しているのを自覚しており、それをどうにかしようとしているかに見える。

ベースやルーツがないから『ピンポン』でおかっぱのウィッグを被っても、『凶気の桜』で白装束の坊主になっても、名のある俳優があえてコスプレしている感覚が薄い。たとえば今の三池崇史の漫画原作映画で、そうそうたる俳優がベースをもっているからこそ漫画のコスプレしている感が強く現れるのと比べれば明らかだ。

だからなのか、演技する感情表現が一般に目にするものとずれこむ。その感情が発露される理由や原因がいつもわからない。窪塚の発するどの感情にも移入するのをためらうのはこのせいだ。

 

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『街~運命の交差点~』より。テレビクルーのうだつの上がらないAD役だった 

そもそも自分が窪塚洋介を知ったのはTBSのドラマの初代『GTO』の生徒役とビデオゲーム『街 ~運命の交差点~』のAD役である。中学生のころに観たテレビに映る窪塚はいち端役であり、クールな印象でココリコ田中を見るのに近い気持ちだった。

 

それが高校に進学したあたりで観た『池袋ウエストゲートパーク』、TVの番宣、映画の予告で目にする窪塚洋介は別人になっていた。なにか本質を欠落したまま、本質を何らかの形で埋めようとする姿、グリーンボーイがキャラクターを掴み変貌した瞬間を人生で初めて目にした。

人工的なルーツ

初見時から16年も経過しているから当時自分がどう感じていたか違っているかもしれないが、少なくとも高校時代当時の初見から窪塚洋介のセリフやそしてキングギドラのリリックにある反米と国粋主義の主張は非現実的な感じがした。

 

後にヒップホップと日本映画が絡み合う路上映画をいくつも見ることになるのだが、窪塚洋介そしてキングギドラ勢も含め、なにかルーツを探る過程のなかで生まれた国粋主義の非現実性を目にすることはない。おそらく日本語ヒップホップにとってルーツを探るのが重要な時代だったのもあるのかもしれない。*1

本当は渋谷そのものが抜き身の現実でありベースで、それだけを示して成立したはずだ。実際、キングギドラの『ジェネレーションネクスト』のPVでは窪塚の持つ非現実性はない。どちらかといえばパブリック・エネミーのように現実社会に切り込むことに自覚的であり、渋谷の風景を背景にそれをやっている。

『最終兵器』はいろいろと物議も醸したわけだけど、それも、「パブリック・エナミーのようなグループを日本でやりたい」っていう、『空からの力』の頃の目標が、ようやく、達成できたんだとも言える。(Zeebra

eleking キングギドラ「空からの力」20周年盤インタビューより

 

自分たちがそこに至るまでの歴史や物語が本人たちが欠落しているのを自覚していて、埋めたがっている。その試みが日本へのアプローチではないか。あれは政治思想の表明ではなく、ルーツの探求と表明ととらえるべきなのだろう。

かくして『凶気の桜』は日本語ヒップホップの重要人物たるキングギドラによるトラックとともに、渋谷の路上を映して見せるというヒップホップと日本映画が隣り合うことを先駆けていたと思う。

だが窪塚洋介が演技する瞬間、作り物のルーツを信じ込もうとする非現実性が生まれる。キングギドラがヒップホップをベースに見つけながら、日本語でのラップを見つける過程で反米や国粋主義が題材に上がった一方、窪塚はベースが見えないまま国粋主義を無理にベースやルーツにしようとするからだ。

本作はすごく窪塚洋介本人の資質が出た映画だ。なので本人の問題がそのまま表れていると言える。本人が東映へ企画を持っていたものであり、監督の園田健次も過去に出演した『池袋ウエストゲートパーク』のOP映像を担当した関連で選ばれていく。

窪塚洋介 : 『GO』の中で「俺は誰だ」っていうセリフが出てくるんですが、それに自分自身がくらっちゃったんですよ。「あれ、俺って誰だろう」みたいな。

そういう意味で言うと、外の声に答えを求めようとしてた時に、俺にとっての答えの出し方の一つだったとは思うんです、『凶気の桜』というのは。「作品」と「自分」がイコールになって(自分の気持ちと)シンクロもしたというか。ここまでシンクロして全てに関われたのは、この作品だけかもしれない。(Interview with : 窪塚洋介 - 凶気の桜 より

 

作り物のルーツが負けて、何もルーツのない事実に引き戻される

一部の新興のカルト宗教を思い出すとわかるが、作り物のルーツを信じ込むことで全能感を発揮することは少なくないはず。ところが物語は完全に作り物が敗北し、ルーツが何もない現実に引き戻されることを選んでいる。全能感が強烈に発揮される一方で、どこかで自分が敗北することをわかっているという矛盾に引き裂かれている。

窪塚演じる山口進はルーツというものがなく、そもそものモデルにするべき相手も、逆に反抗すべき相手としての両親も不在だった。だからルーツを探る過程で作り物の国粋主義に目覚め、疑似的な父親像を見つける。潰れかけた古書店の店主、右翼系暴力団の会長である、原田芳雄演じる青田たちがそうだ。

奇妙なことに反抗すべき上の世代が最初から山口(そして演じる窪塚にもおそらく)に無いから、青田たちを観る視線は羨望ともつかない感情である。彼らが確かなルーツを持っているように見えるからかもしれない。

反抗する相手がむしろ同年代のチーマーとほとんど自分と同じような相手ばかりだ。その理由も相手が「アメリカの物まねを受け入れている」とルーツというのものがないから殴りつけに行く不条理なもので、あとで考えると自分にルーツがないことの裏返しなのだから、それは自傷行為に近い。

やがて右翼系暴力団との関係のなかでネオ・トージョーは徐々に解体に追い込まれることになる。だが、解体を行うのは警察のような公権力でもないし、暴力団でもない。この映画の中で特に現実感の無いキャラクターである江口洋介演じる「消し屋」の三郎である。彼は右翼系暴力団の中で暗躍しており、映画の随所で殺人のシークエンスが挿入されるのだが、とびきり作り物めいた演出が為されるのだ。

 

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山口VS三郎。ヒップホップ&路上映画感がさっぱりない、作りの強い絵面。

窪塚演じる作り物の国粋主義者の山口が、あまりにも嘘くさいのに作品世界内での完成度は高い殺し屋のキャラに完敗していく物語にしたのは逃げだと思う。彼が逆にルーツやベースに気づくための敗北を避けた。なぜ何らかのベースを持つ大人としての公権力や暴力団に敗北する形にならなかったか。決定的な敗北を避けたから。

敗北にナルシスティックな形を持たせるまでが当時の限界だった。桜が散る中で死に、彼女に駆け寄られる最後のシークエンスは美しいわけじゃない。結局抽象的な大人と子供の対立に納めたことは、本質的な問題から逃げた以上の意味を持たない。しかし、うすうす自分が負けることをわかっていながら焦燥感に駆られていたという物語は、そのまま当時の窪塚を映していると言える。

ラストの刺殺は「山口が殴っていたチーマーの誰かかも」と窪塚は語っている。先の「自分に近い人間を殴りつける自傷行為のような暴力」から考えると、あれは山口の自殺だったとも解釈できる。

その曖昧な結末は後の現実にも繋がっていた。例の「自殺か事故かあいまい」な事件、それは窪塚本人の決定的な敗北がメディアで注目を集める時期に起きた。

その後…… 

ルーツやベースの不在を基にした焦燥感のまま、窪塚はあのマスイメージを確立しキャリアを進める。途中ネットで長女誕生時のコメントがネタになったりしたが、もう危なくてネタにしないとおさまりがつかない部分はあったと思う。いずれにせよ奇行や言動ゆえにメディアに取り上げられていたのを記憶している。

ところが2004年に終わる。育休中にマンションで転落事故を起こす。正直、自分はそのニュースをすんなり納得した。ありえるだろうなと。この事故は自殺説も流れた。本人は「記憶にない」と発言。真相はどうあれ、目に見える形でひとつのピークに区切りをつけた。

後の2006年、卍LINEとしてレゲエをはじめ、そのPVを観た時にはむしろようやくベースを見つけ出したかに見えてスムーズに観れた。彼が自分が精神的に帰属するものにレゲエを選んだことで、彼自身のベースはもともとそこが合っていたのだろう。

いま窪塚を観る時、あの時代のような座りの悪さはなくなった。最近の「レゲエとヒップホップ、掘り下げれば一緒、しかもPEACEやんか。……って感じでいいですか 笑」そう語る窪塚を見て、往年の切羽詰まっていたことを思い出して泣いたのはおそらく自分だけだ。

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だけど、マーティン・スコセッシの『沈黙』に出演した窪塚洋介は違っていた。日本人でありながらキリスト教を信仰したキチジローは、あの全盛期から進んだ姿を見せていたと言っていい。ルーツとベースを失い、なにが自分を成立させるのかわからなくなった人間がなにかベースを見つけ出す姿を演じる時、窪塚の演技は変わらずに力を増す。

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凶気の桜

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*1: 政治思想は右翼と左翼が教室みたいに分かれ、発言から各教室にわけられて判断されるもののわけがない。たいてい政治に関連する発言をする個人の意志や文脈はほとんど読まれない。今日のインターネットやTwitterで見られる、アイコンに国旗をつけながら日本への愛をプロフィールに書く大半は、ただ弱者と他人を切り捨てることを正当化する文法に日本を持ち出しているだけに過ぎない。