スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

窓に張る段ボールまでが彼らの世界の果て『岬の兄妹』

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『岬の兄妹』

本当のことをいえば、新海誠の『天気の子』は『岬の兄妹』を甘く包み込んだアニメーションだと思った。映画が終わると、泣きながら階段を下りてゆく観客たちが見えた。自分が観たものと、彼らはまったく別の物語を読み取っていたのは確かだった。

IGNのレビューにも書いたように、自分が『天気の子』で注目したのは、貧困で、行きづまっていく少年と少女たちだ。近年のインディペンデント日本映画が描き続ける題材と、新海誠の実写的なロケハンがそこに目を向ける出来事がそこにあった。

でもシナリオ上では、そんな環境は決定的には描かれず、示唆するまでにとどまっている。おかげで過不足のない環境にいる主人公が観ている半径までが、確かな世界だって描いていたころのビジュアルノベルみたいだねって語られ、消費されていった。やはり自分が観たそれと別の物語を観ていたようだ。

あのアニメから甘い包みを捨てた姿とはなにか? 誰も見ないようにしているが、確かに存在する現実そのものだ。『岬の兄妹』は、すでに主人公をとりまく環境が世界の幅を狭めざるを得ないことを伝える。『天気の子』から甘いボーイミーツガールを取り除いたみたいな、目を背け、誰も観ない、泣くこともない物語である。

 

ある兄妹が港町で暮らしていた。ぼろぼろの借家で、窓に段ボールが張り付けられた家だ。兄は足を悪くしており、港で働きながら妹を養っていた。妹は自閉症でまったく働くことはできず、家にずっといた。段ボールは彼女を隠しているのか、彼女が外に出ないようにしているのだろうか。

そんなある日、兄は解雇される。足の障碍が原因だった。みるみるうちに生活するお金はなくなり、薄暗い家にわずかについていた電気も止められる。なんとか知り合いにお金を借りようとするも、家族が出産を控えており、少ないお金しか得ることができなかった。

限界まで行きづまり、兄が手を出したのは妹を売春させることだった。きっかけは夜な夜な妹が家を抜け出し、戻ってきたときにお金を手にしていたことだ。どうやら障碍を持つ女の子ということで、騙してセックスし、しかし負い目があるからお金を渡している男が街のどこかにいるらしい。兄は、妹を老人に、学生に、小人症の青年に売り渡した。

そう、貧困が限界まで迫り、自閉症の妹の身体を売ることでなんとか生計を立てるストーリーが『岬の兄妹』の核である。本作を観た数か月後に『天気の子』を観て驚いたのが、実質的に同じ物語が描かれたことだった。なんらかの欠陥を抱えた男が、特殊な状態である女の力を使って、貧困の状況をどうにかするためにお金を稼ぐ。

監督の片山慎三はポン・ジュノ山下敦弘の元で助監督を務めた経験を持つ。映画製作の地力が高い状態でデビュー作の本作を撮っている。それゆえか、インディペンデント特有の弛緩や欠陥が少なく、かつ生々しいテンションを保った映画に仕上げている。

『天気の子』にてクライマックスに「世界なんて狂ったままでいい」と叫んだのを、観客たちは思い思いに解釈しただろう。ラブストーリーとして。昔のアニメやゲームのトレンドとして。自分は貧困のあまり身体を売る方向に向かわざるを得ない環境それ自体が、少年少女にとって壊れたものなんだと捉えた。

『岬の兄妹』では壊れた環境が主人公たちにとって世界の全てであるようだ。自分たちの生活保護を申請しないし、ぎりぎりの状況から何とかありつけた食べ物を、本当においしそうに食べるのは、『天気の子』でも『岬の兄妹』でもファストフードなのだ。

ここまでハードコアな映画を撮っていると想像しにくいのだが、片山監督の経歴にアニメーションの仕事が絡んでいたことも、両作のつながりを考えさせるひとつでもある。

過去に村上隆のアニメ『6HP』に関わっていたほか、「日本の映画はつまらないなと感じていた頃。自分がもし監督になったとしても、撮りたい作品は撮れない……もう辞めようかと考えていました。わりと作家性が認められていると思っていたアニメ業界に興味があったので、シフトチェンジを考えていたんです」と考えていたことも語っている

かつて世界とは、自分の目に映る半径を肯定することとして捉えられていた。自分の生活の範囲で世界観の全てを構成するというのは、なにもアニメやゲームの特権ではない。自分の生活範囲がそのまま映画の作品世界にしてしまう、もっとも大きなシーンは自主制作映画だ。

少なくともアニメにおいて、矮小な世界観をすべてだと言ってしまうトレンドを生み出した、庵野秀明山本寛といった作家たちは、生活範囲を世界のすべてにしてしまう自主制作映画のスタンスが作品に反映されていた。新海誠もおそらくは自分の生活範囲をロケハンしてデビュー作を撮ったことだろう。

では今の自主制作、インディペンデント映画はどうか。いくつかの映画は、そもそも自分の生きている範囲自体が変質していることに気づき、それを映している。街にはもう日本人だけが住み続けているわけではない。アパートの隣では人知れず誰かが亡くなっているかもしれない。もはや、なんの条件もなく肯定できる時代ではなくなっている。

すでに窓に段ボールを張り付け、外界から恥ずかしいと思い込んでいるものを見せないようにし、静かに貧しくなるほど、生きる世界を限定されてしまう人がおそらくいる。変質している現実に呼応した『天気の子』が『岬の兄妹』によく似た構図を持っていることが今年の映画でとても心に残った。監督の生活範囲が世界のすべてになりやすい自主制作映画と、アニメーションの関係を振り返るうえでも。

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