秋葉原の事件が目覚めさせた現実を誰も見つめることはない『ぼっちゃん』

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映画は監督、俳優、撮影スタッフなどの極めて特殊な人的資本を労働集約的に用いる生産部門と、劇場という資本・土地集約的な形態を持った流通部門からなっている。特殊な人的資本と資本を遊休させないのは、経済合理性から発する当然の要求である。

ある質の、その内容もある程度予想できる映画を常に提供できれば、製造部門としても、流通部門としても、経営の安定を維持することができる。映画館は上映する映画が必ず必要で、映画制作会社にはそれを上映してくれる映画館がいつでも必要なのである。そのような要求に応じるものとして自然発生的に生まれたのが、ブロックブッキングとスタジオシステムである。ブロックブッキングとは特定の映画制作会社の映画だけを上映する映画館組織であり、スタジオはあるカラーとあるレベルの質を持った映画、プログラム・ピクチャーをよどみなく作り出すための組織である。観客の期待(必ずしも高い期待ではない) に応じてある質と内容の映画が、いつも決まった映画館で上映されていることが重要なのである。もちろん、そのようなシステムの中でも社運をかけた大作は作られていた。しかし、映画制作会社や映画館の経営を安定させるものはよどみなく作り続ける映画である。(PDF「映画:才能と資本を集めたベンチャー企業への変身を」より)

日本映画は自覚的に渋谷や新宿を被写体に選択してきた。しかし秋葉原ばかりは、いまだにその現実を映すことをできていない。

今年2018年で秋葉原通り魔事件から10年が経過した。あの衝撃を題材に、いくつかの日本映画が撮られている。『RIVER』、そして来年には『noise』が公開を予定している。

秋葉原が被写体として映されるとき、そこにはあの事件が影を落としているのである。今回取り上げる『ぼっちゃん』はまさしく事件の犯人、加藤智大を題材にした映画だ。

日本の現実を映す都市として選ばれた秋葉原

いつの時代でも、渋谷や新宿は現実を生きる人々の行きかう街を映す象徴的な都市だ。だから映画に選ばれてきた。しかし2000年代以降の日本で、ある現実を凝縮した都市として、秋葉原はクローズアップされるようになってきたと思う。

今年2018年で秋葉原通り魔事件から10年が経過した。あの事件は秋葉原が再開発が進み、メディア的にも注目を集めていた時期に起きた。ある意味でこの事件は、ひとつの現実を象徴する都市としてクローズアップする決定打となったといえるだろう。

文化的な隆盛と唐突な事件がかみ合うことにより、これまで秋葉原を被写体に選ぶことすら考えていなかったであろう日本の映画人が、この事件を題材とするようになった。その過程でオタクとアニメやゲームの街が、まったく別の視点で映されることになるのである。

絶望的なまでに現実を映せない内容

ところが「オタクやアニメ、ゲーム以外」の視点である秋葉原は、そこにまったく別の解釈や、文化圏外ゆえの批判性を持った都市として描かれることもなかった。

『ぼっちゃん』では加藤をモデルにした主人公、梶が工場での労働者として行き詰っていく姿が描かれていく。そのエピソードには加藤が追い込まれていくことになった派遣労働者としての背景などが反映されているし、梶を演じる水澤紳吾の演技や、ぞっとする存在感は一見の価値があるだろう

ところが最も重要なことが描かれていない。インターネットの掲示板である。

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日本映画がインターネットやその他カルチャーを取り込む能力の低さは以前に「ガキのモード」で書いた通りなのだが、『ぼっちゃん』では拒否反応と呼べるくらいのレベルで一切、インターネットが描かれない。

梶は不快感を携帯電話(当時をモデルにしているからガラケーだ)で素早く掲示板に打ち込んでいくのだが、結局作中でインターネットの向こうの人間と会話しているという描写はない。

ということは、加藤が事件を引き起こすことになる決定的な追い詰められ方や、孤立する様を捨てることになる。インターネット以降、自意識や自尊心の背景って完全に変わってしまったんだけど、その精神性にリーチできなくなってしまう。加藤の内面の問題をわかってないことになる。

そこには監督大森立嗣が日本映画を習得してきた文化圏と、2000年以降の文化圏の変質に対応できていないことを感じる。文化圏は言い換えればリアリズムといってもいい。なにせ荒井晴彦監督、阪本順治監督らの助監督をキャリアの初期に行ってきたくらいだ。

 

日本映画界のドメスティックなクリエイティブとオタクカルチャーの相性の悪さは、荒井晴彦が編集長を務める「映画芸術」の揉め事が象徴的である。彼らの所属している形骸化した日本映画ならではの現実を映そうとするスタンス、文学性、アーティステックなそれは、結局のところ加藤智大本人とその背景を一切として映すことはできなかったのである。

現実でありながら現実を映すことはできないこと

「様々な職場でも孤立し、インターネットでも精神的に孤立した」加藤が、『ぼっちゃん』ではあまり孤立しない男として描かれる。工場の同僚である、宇野祥平演じる田中とつかず離れずな友人関係が描かれるし、ときに同性愛者みたいにも映されるシークエンスは絵的に美しくもあるといえるだろう。

だがしかし、そこにあるのは日本映画が描きがちな文学性の形骸化した姿でしかない。加藤が持っていた苦しい部分を緩和させる意図があったのかもしれないが、むしろ映画が肝心な部分からどんどん遠ざかっていく。

もうひとりの同僚の田中による犯罪に加担したりするエピソードは加藤が本当に孤立していくことを描くことから遠ざかっている、というか、インターネット掲示板でログを残したりすることが生活の中に組み込まれた人間の存在を根本的に理解できないから、そうした描写に行ってしまったというべきなんだろう。

むしろアニメ・マンガ・ゲーム(の一部)のほうが遥かに時代精神を反映できてしまうことについて考えてしまう。こちらも10年を迎える『シュタインズゲート』という作品をいまさらやっていたのだが、そこには2009年前後の秋葉原を完璧に描写してるといってもいいだろう。背景美術で精微に描かれる秋葉原の風景とインターネット、カルトな疑似科学やら胡散臭い秋葉原とカジュアルな秋葉原の双方が凝縮されているからだ。

「加藤は母親の教育のせいで事件を引き起こした」「派遣労働者として追い詰められた」という言説が事件が発生した定説になっている。しかし真実であるわけがないのは承知の通りだ。それは表面的な社会背景に事件の評価を預けることで、現実を見つめることを拒否しているにすぎない。

シュタインズゲート』のような時代精神と『ぼっちゃん』が目指そうとした現実を映し出そうとする態度の両方ができる人間はいない。だがそれもそうかもしれない。日本映画や日本文学がどれだけオタクカルチャーを蔑視し、そしてオタクカルチャーが文学や芸術に失望してきたか。いまだ、日本映画であの事件の現実を映すことはできてはいないし、秋葉原という街の路上を映すこともできていない。