日本語ロックとヒップホップの境界線『大和(カリフォルニア)』

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大和(カリフォルニア)』(2018)

 

まず最初に次回(次回の次回かも)予告だが、「路上の映画はいかにジャズやロック、ヒップホップと隣り合ったのか」みたいな内容を書くことを考えている。これは70年代から現在までの日本のインディペンデント系映画が、その核の音楽とどんな風にかかわり、その音楽ジャンルの何を見て自分の映画に選ぶにあたったかをとりあげるつもりだ。

現在はインディペンデント系映画とヒップホップとの隣接が語られることは少なくない。すでに日本語ヒップホップが様々な媒体で取り上げられるようになり、本来路上の彼らとまったく縁のないはずの評論家からほとんど知識のない自分みたいなものまでヒップホップを無視できなくなっている。

そこで宮崎大祐監督の「大和(カリフォルニア)」は「SR サイタマノラッパー」や「サウダーヂ」と公開前より比較され、ヒップホップの映画であると表明している。神奈川県の米軍基地近くの現実とヒップホップが表現する地元のリアルを繋ぎ合わせることを意識している。ところが実際には、ロックやアンビエントの印象が強い。

 

主人公の少女・サクラは母親とボカロPやフィギュアづくりなどを行う兄と3人暮らしをしている。厚木基地の小さな家に暮らしており、飛行機が滑空する音が絶えない。彼女はゴミ捨て場でひとり、だれに披露するわけでもラップを練習している。

冒頭がまさにサクラがひとりでラップを練習するシークエンスが流れるのだが、自分がちょっと驚いたのはここでシューゲイザー、チルアウト的な劇伴が流れる点である。ビートが抜き身になったトラックではない。拍がはっきりせず、リリックを乗せていきやすいものではない。ここでがちがちのヒップホップ映画だという先入観を外される。

劇伴と作中世界でラップするときに使うトラックは別物だけど、あとあとリリックの乗せづらい楽曲を劇伴に据えた意味は現れてくる。アンビエント・チルアウトな劇伴は、やがて厚木基地から飛び立つ飛行機の音と混ざりあい、登場人物の言葉をかき消す。

 

ヒップホップらしいシークエンスはもちろんある。街で出来上がったサイファ*1にサクラが殴り込み、ラッパーにフリースタイルで挑む。だけどサクラはリリックを噛む。完璧に自滅して敗北し、サイファーのなかでニヤニヤしている女子グループを殴りつけて去ってしまう。夜眠ると、クラブのオーディエンスの前でラップを披露する夢を見る。ところが一言も発することができない。みんな憐みの目でサクラを眺める。けれど、自分にはどう言葉にすればいいかわからない。

いずれにせよ、ヒップホップ映画であるにも関わらず大事な言葉をかき消す要素が多い。それはラップをどうしても口にできないサクラという脚本のテーマとして意図的なものも大きいだろうが、何か行き詰っている主人公がどうにかラップを口に出すようになるかの物語だ。

しかし、本作でどうしてもロック映画としての印象が勝る。重要なシークエンスにサイケデリックバンド・割礼の宍戸幸司や、GEZANといったロックバンドが担うからかもしれない。表向きのヒップホップ論も出てくるのだが、実際には上滑りしている感がある。「アメリカのコピー」という言葉も現状の日本語ヒップホップの問題意識はたぶん10年以上前の世代の問題であるし、特に今日のインディペンデント映画と日本語ヒップホップの近づく理由はすなわち地元の現実をリアルに映すという点ではないか。 

序盤にラッパーのNORIKIYOがラップを披露するも、それはサクラが自分の実力との差を感じるまでにしか過ぎなかった。中盤からは母親の恋人・アビーの娘のレイと一緒に過ごすなかで、レイはサクラにラップを見せてほしいとお願いする。ところがここでも彼女は黙ってしまう。

物語に音楽が強く機能するシーンは後半である。真夜中、サクラが以前手を出した女子グループからの暴行を受け、倒れてしまったあいだにホームレスに連れられ、金網の向こう側に連れられる。目を覚ました先には、原っぱに廃墟がたたずむ。そこではGEZANのインストゥルメンタルが演奏されており、現実か夢かはわからない。しかし生き死にの境界から日米の境界といったラインを超えた場所で、ようやくサクラは自分の言葉を手に入れるのだ。

こう書くと大団円を想像するだろう。ところが、この映画はヒップホップを主人公サクラのラップが最後まで上手くないままだ。上映後のトークショーではサクラ役の韓美恵さんが役作りに向けてラップの練習をしたとのことだけど、うまくいかなかったことを述べていて実際難しかったという。

ここで気づくのは作中のストーリーも映画もなんとかヒップホップを表現したいと躍起になっていることである。宍戸氏とGEZANのインストゥルメンタルによって立ち上がるシークエンスは本当に感動的である一方、その超現実的なシーンはオルタナサイケデリックロックの持つ解脱みたいな意味合いである。ヒップホップの持つ、ある意味でクールで、現実的な間合いとは違う。

つまりロックの持つ物語の波のほうにシンパシーを持ちながら、今、映画で表現しなければならないと感じているのがヒップホップであるという引き裂かれかたを持つ。本作を日米の境界という舞台からいろいろ見立てる読みは多いと思うけど、どちらかというと日本のインディペンデント映画物語のベースの音楽がロックからヒップホップに映りつつある境界を感じる。

かつて日本の路上映画で少なくない監督がロックをベースにしていた一方、現代ではリアルさという意味でヒップホップの意味合いは大きくなっているだろう。『大和(カリフォルニア)』はロックの持つ破壊や自由といった物語性を信じたい一方、どこかしらクールなリアルさを見せるヒップホップの持つ、路上の現実を映す物語性を無視できず、向かいあおうとする。結果、ロマンとクールさが相反する映画になる。

Cherry Brown(リル諭吉)の先行サウンドトラック。

最後におまけながらも本作でちょいちょいとアクセントになるボカロPもやってるお兄さんだったり、本作の劇伴を担当したCherry Brown(リル諭吉)はラッパー・トラックメイカーながら萌えアニメネタも好むというスタイルだったりする。そんなふうにところどころライフスタイルにアニメ・オタクネタが混じった要素が垣間見えているのがちょっとおもしろかったりする。ヒロインもレイという名前でショートカットなのだし。ある意味「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の路上の映画化感ある。

 

*1:(ラッパーが集まって即興でラップをおこなうこと)