スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

目にしながら認識しない現実『サウダーヂ』

 

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“1970年代初頭、映画産業の斜陽によって各社は軒並み自社の撮影所を貸スタジオにして独立プロやテレビドラマ、CFの撮影もできるようにし、専属スタッフや俳優も解雇して撮影所システムは崩壊した。”(wikipedia映画スタジオ」)

 

『サウダーヂ』(2011) 

自分の地元周辺にイオンモールが出現した前後から駅前の商店街でもシャッターが目立つようになった。家から200m~500m周辺を散歩するとインド料理店(バングラデシュやネパールから来た方が運営している。)やタイ料理店も目立つようになり、工場近くのコンビニで買い物をしていれば東南アジア周辺から来た人々がその国の言葉で喋りながら飲み物を買っているのを目にする。

 

アジア周辺の様々な人々が身の回りで暮らしはじめているのが目に見えているのだが、その内実がどういうことかははっきりしない。たまにテレビのドキュメンタリーが地方で起きていることを取り上げることもあるが、その社会問題的な編集ゆえに壁の向こう側のことみたいにに見えてしまうことも少なくない。

 

現実に可視化していながらの認識しきれなさ。誰でも自分の住む地元だろうがどれだけ周りを認識できているのか。すぐそばの片隅に個人商店があることを知っているのか。そこで売っているから揚げの味を知っているのか。

 

 

富田克也・相澤虎之助率いる空族によって製作された映画『サウダーヂ』は目にしていながら認識していなかった現実を認識させる。舞台は山梨県甲府市であり、自分の住む場所とは違う。しかしここには自分の住む街でも静かに起きている現実にアプローチしている。

 

上のトレイラーを見ると貧困・移民問題のようなテーマに感じられるかもしれない。だが、この作品は社会問題的にそれを切り取り編集することで、逆に現実の感覚とは別の世界のことだと分断してしまうことはない。もともとが土方の友人の現実から街をリサーチするという形から入ってたとのことだから、そうした膜というか線引きというか、そこから遠くを見つめる形ではない。

 

実際の皮膚感覚に近い視座を保っている。なにしろ、出てくる登場人物たちが土方やブラジル人、ラッパーそれぞれがみんな隣にそういう現実があるのを目にしながらさして認識できていない。日常過ごしている感覚そのままで映画を成立させている。本作が断片的で、線形の物語(これは一人の主役の視点から追うというだけではなく複数の視点からひとつの自体進行すら含む)を取っていないことも大きい。

 

よく「日常が侵食される恐怖」のようなテーマでホラーが描かれることもあるが、現実には自分の生命や財産に被害さえ及ばない範囲の日常が別のもので侵食されるのであれば、実のところそれほど日常の皮膚感覚が変わるくらいの影響はない。ただただうっすらと違和感が蓄積されるばかりである。

 

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そして本作の彩るのが田我流によるラップも大きい。本作では本職が土方だったらそのまま作中でも土方を演じるように、ラッパーとして登場。本作に通底する作風とヒップホップの意味合いの繋がり方、詳しくは本エントリの末尾に昔書いた公開当時の感想ブログ記事のリンクを張るのでそちらを読んでいただくとして、作中ではろくでもない役回りなんだけど、全体の印象をどこかクールにしているのには彼の音楽が大きい。

 

公開から今年で7年が経過した。ここで撮られたことは今日の現実を先行していたのか否か。ソフト化を行わないことや、今だ各所で語られていたり、上映が行われるなど、近年の日本のインディペンデント映画におけるクラシックになった感はある。自分はそれから目にしていたきりだった個人商店に入りから揚げを買った。

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映画はどこにある インディペンデント映画の新しい波

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自分のやっている格闘技ブログ「オウシュウベイコクベース」にて、公開当時の感想と当時の不良の格闘技大会ジ・アウトサイダーと絡めた記事。個々のジャンルに関して解釈に偏見や思い込みがあり、荒いけどまずはそのままで…