スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録

葛西祝の路上を記録した映画についてのテキスト

現実と作品世界の境界から垣間見える路上の映画

「スタジオシステムが灰に消えたあとの路上映画録」立ち上げました。よろしくお願いいたします。インディペンデントの日本映画を中心とした、路上の映画について取り扱うブログです。以下は蛇足です。

 

 

「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」で商業アニメーション*1について書いているけど、改めて商業アニメの凄さというのは観客に現実世界とは別のキャラクターと作品世界を信じさせる受容の強さではある。

 現実と別の作品世界と書くとなんだかファンタジーやSFのことを思い浮かべるかもしれない。ここで言っていることは題材が現実の物事でも同じだ。要は映画の物事をどれだけ信じさせるか、そしてスムーズに信じさせるような慣習が今、あるかということだ。

当たり前のことというなら、今すぐシネコンに行き適当な日本映画を見ればいいだろう。どれだけの作品がフィクションとして作品の中の世界を、登場人物を信じさせる受容があるのか。描かれている物事の好き嫌いに関わらず、一瞬でもコントみたいだとか、嘘くさいと入り込めなかったならば、作品世界を構築しきれなかったということだ。たとえば「鋼の錬金術師」映画版の作品世界を真剣に信じ、見つめることはちょっと難しいだろう。

半世紀も昔の、ある時期の日本映画は確かに作品世界を、そこで生きるキャラクターを強く信じさせる受容があっただろう。そこにはまだスタジオシステムが存在していて、なんとか作品世界を作り上げようと でも、その時期の日本映画を観るとまるで外国よりも遠い世界であるかのように見える。

一方で、商業アニメは時々実写のもつ揺らぎに憧れているときがある。押井守大友克洋京都アニメーションの面々を観るとそう思う。アメリカのディズニーをはじめとしたロトスコープ(実写映像の上から絵を描きアニメーションを作る手法)とは別の意味で、作品世界をさも本当のものにするように、実写の理屈を持ってくる。

でもそれはしばしば、現実世界とは別の作品世界を信じさせるということからこぼれた、ある現実を切り取った効果を生み出そうと努力しているようにも思う。現実に目にしていながらにして、現実に知覚していない物事を映す実写映画の性質を商業アニメを繋げられないか、というような。

日本映画がスタジオシステムを持っていた70年代まで、少なくとも映画という作品世界を信じさせ、受容させる環境があったと思う。しかしそれが映画産業の変遷によって一度機能しなくなり、現在ではスタジオシステムを残しているのは東宝、松竹、東映などわずかである。

ではそうした日本映画の作品世界の需要に区切りがついたあとの映画世界はどうなったのか?製作委員会による制作によってリスクヘッジした制作手法が昨今では批判され久しいが、では作家的な方法で制作する監督たちは何を作ったか?それが垣間見えるのが主にインディペンデント映画のような、基本的にスタジオシステムによる作品世界構築から離れ現実世界をロケーションとして撮影された映画だ。 

そこでは現実世界と作品世界があいまいになった映画が展開される。いわばスタジオシステムの外側に広がっている、現実の路上がむきだしになっている映画だ。このブログで基本的に取り上げるのはそうした路上の映画です。*2

 

 

 

*1:基本的にはテレビやネット放映の連続アニメのことを差す。

*2:こうざっくりかきながらなんだがすべてのスタジオシステムの映画だから現実とあいまいになる世界を描けないとか、インディペンデント映画だから作品世界をまったく構築しきれないということでもない